信長の野望・天翔記~「シナリオ・信長誕生」松平家プレイ(1544-1553)~

信長の野望・天翔記

1544年・春

概況

金:5059⇒4950
金収支:6340⇒6149
米:487⇒841
米収支:1002⇒613
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

1543年は松平家の所領全域で日照りが続き、不作に陥った。その立て直しに時間を費やした。

そろそろ軍団制を用いて、内政部隊を分ける必要がありそう。今年もまずは戦力整備を行い、来年度の軍団制に移行する準備を進める。

新規配下武将

北畠具教(きたばたけとものり)
1528~1578
伊勢国司。信長の伊勢侵攻の際には、大河内城に籠城して善戦したが、信長の次男・信雄を養子とする条件で降伏。隠居したが、信雄の刺客によって殺された。

小河信安(おがわのぶやす)
????~1558
龍造寺家に仕え、龍造寺隆信と神代勝利との和をとりもつ。春日山の古城で、神代勝利に討たれた。隆信はその死を悼んで、弟・信俊に信安の後を継がせた。

三好長逸(みよしながゆき)
????~????
三好三人衆筆頭。長慶の死後に家督を継いだ義継を盛り立てるが、やがて松永久秀と対立し、家中は分裂する。信長の畿内制圧軍に敗北し、行方をくらました。

香川元景(かがわもとかげ)
????~????
細川氏家臣。主家没落後は三好氏に従ったが、上洛した織田信長に誼を通じる。その後は長宗我部元親に降り、元親の次男・親和に家督を譲って隠居した。

吉田重俊(よしだしげとし)
????~????
吉田孝頼の弟。智謀に優れた武人で、兄と共に長宗我部家の隆盛に大きく貢献した。特に安芸国虎との戦いでは安芸家中を内部崩壊に導き、勝利の機を作った。

六角定頼(ろっかくさだより)
1495~1552
将軍・足利義晴に従い武功を立て管領に準ずる待遇を受けた。観音寺城を改築し、紙の楽市の制をしくなど、治政の随所に先見の明を見せた。

1544年・冬 長篠城攻防戦

太原家(旧今川家)の本城を攻めるも、雪斎率いる大群が長篠城に流れ込む。

長坂信政(戦闘142)、赤尾清綱(戦闘103)、赤穴光清(戦闘100)の奮戦で守り切った。

1545年・春

概況

■第1軍団
兵士:701
金:3927
金収支:4476
米:268
米収支:317
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:195
金:2637
金収支:2245
米:1171
米収支:661
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

細川家が大友家との同盟を破って侵攻を開始。

それに混乱した大友家は、朝倉家の反攻によって東西に分裂する形に。

一気に細川家の時代が来そうだが、同盟を破ったことで内乱のリスクもはらむ。

そして、徳川軍は第2軍団を創設。

酒井忠次を軍団長として、内政の充実を図る。

新規配下武将

保科正俊(ほしなまさとし)
1509~1593
武田家臣。信濃先方衆として高遠城の守備に当たった。槍の名手として知られ、「槍弾正」の異名を取る。武田家が滅亡すると、徳川家康に降った。
朝比奈信置(あさひなのぶおき)
1528~1582
今川家の臣。主家の滅亡後は武田信玄に仕えて駿河先方衆となり、150騎を預かる侍大将になった。徳川家康の駿河侵攻軍に敗れ、自刃した。

1545年・春 太原家へ侵攻開始

太原家が北部に攻め込んだので、南部ががら空きに。

この機を逃がさず、所領を手に入れる。

兵力差は歴然。(兵糧はかなりギリギリだけれども)

三城を落城。朝倉家とは同盟を結びたい。

大友家を共敵にいける。

しかし、夏になると朝倉家は弱体化・・・。

これは静観か。

北条家と手を組んだほうがよさそうだ。

1546年・春

概況

■第1軍団
兵士:701⇒771
金:3927⇒9581
金収支:4476⇒6733
米:268⇒1385
米収支:317⇒1132
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒13

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:195⇒205
金:2637⇒2477
金収支:2245⇒2477
米:1171⇒1930
米収支:661⇒1037
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

北条家との友好度は90。100にして同盟を結びたい。

それでもって、北部への侵攻を開始したい。

この春、無事同盟が成立した。

新規配下武将

松井宗信(まついむねのぶ)
????~????
今川家臣。1529年、兄・信薫の死により、家督を継いで遠江二俣城主となった。氏真から代官職を与えられ、二俣の知行を安堵されている。

平瀬義兼(ひらせよしかね)
????~1551
小笠原家臣。忠義の心厚く、主家没落後も犬甘家と共に信濃に残り武田軍に対して頑強に抵抗した。しかし、居城・平瀬城を攻められ敗北し、自害した。

高遠頼継(たかとおよりつぐ)
????~1552
諏訪家一族。宗家乗っ取りの野望を武田信玄に利用され、諏訪攻めの片棒を担がされる。宗家滅亡後、当主におさまろうとしたが、信玄の攻撃を受け自害した。

大久保忠世(おおくぼただよ)
1532~1594
徳川家康に独立前から従い、弟・忠佐との連携で多くの軍功をあげる。清貧剛直の士である一方、一度背いた家臣の復帰を家康に取りなす寛容さも備えていた。

1546年・夏 興国寺城攻略戦

北条家と同盟を結び、兵士がいない興国寺城を悠然と攻める。

これで北部侵攻への足がかりが完成した。

1547年・春

概況

軍団の所領分配を変更。

■第1軍団
兵士:771⇒871
金:9581⇒5601
金収支:6733⇒2475
米:1385⇒1071
米収支:1132⇒151
鉄砲:0⇒0
騎馬:13⇒28

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:205⇒313
金:2477⇒7971
金収支:2477⇒8249
米:1930⇒5027
米収支:1037⇒3038
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

いよいよ、北部の上杉家、諏訪家(旧朝倉家)に侵攻準備が整った。

新規配下武将

山本勘助(やまもとかんすけ)
1493~1561
武田信玄の軍師。天文学からの兵法まで文武百般に通じた。川中島の合戦では「きつつきの戦法」を考案したが失敗。その責を負って乱軍に突入し、戦死した。

朝比奈泰朝(あさひなやすとも)
????~????
斜陽の今川家を最後まで支えた忠臣。駿府を追われた主君・氏真を掛川城に迎えるが、徳川軍の攻撃に開城。氏真と共に小田原へ逃れた。その後は消息不明。

1547年・春 木曽福島城進軍

海北綱親(戦闘98)が手強いが、兵力差で押していける。

そして勝利。海北も配下武将に加わった。

1547年・秋 鳴海城の戦い

大友家が山口家の鳴海城を攻めてきた。

早々に山口家が籠城を選んだため、こちらも籠城戦を選択。

鳴海城は落城し、山口家は滅亡。

岡崎城にも攻められたが、問題なく撃退。

九鬼泰隆を配下にできた。

1548年・春

概況

■第1軍団
兵士:871⇒1134
金:5601⇒6535
金収支:2475⇒4218
米:1071⇒3763
米収支:151⇒98
鉄砲:0⇒0
騎馬:28⇒39

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:313⇒365
金:7971⇒7765
金収支:8249⇒8207
米:5027⇒3632
米収支:3038⇒3062
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

西は細川家、東は上杉家が勢力拡大。

いよいよ、両雄に挟まれる形で忙しくなりそうだ。

まず、この1年間は教育の期間とする。

少なくとも10名以上は120に乗せたい。

また第2軍団には内政ではなく、軍備増強を指示。

新規配下武将

海北綱親(かいほうつなちか)
????~1573
豊臣秀吉をして「我が軍法の師」と言わしめた、浅井家中随一の策士。浅井家で武者奉行を務めた。信長軍の侵攻に善戦するが、小谷城落城時に戦死した。

九鬼泰隆(くきやすたか)
????~????
九鬼第4代。志摩田城に城を築き九鬼家の居城とした。伊勢国司・北畠家が山田の神人と戦った際、北畠家について戦功を上げたという。

木沢長政(きざわながまさ)
????~1542
畠山家、細川高国、細川晴国、細川晴元と次々に主君を替え、大和信貴山城を築城する頃は、晴元とも対立する。畠山政国につき、三好家と戦って敗死した。

三木直頼(みきなおより)
????~????
飛騨の豪族。桜洞城を築いて本拠とし、版図を拡大する。北飛騨の姉小路家や美濃の土岐家、本願寺と友好関係を結び、飛騨に一大勢力を築いた。

氏家定直(うじいえさだなお)
????~????
最上家臣。内紛続きの主家に新たに家督相続問題が生じた際、病床にありながらその調停役を務め、義光への家督譲り渡しを実現させた。

杉原盛重(すぎはらもりしげ)
????~1581
毛利家臣。備後神辺城主・杉原理興の死後、神辺城代となる。吉川元春に従い、山陰方面攻略軍の先鋒として活躍する。のちには伯耆泉山城主も兼ねた。

1548年・秋 細川家が諏訪家に侵攻 岩村城侵攻

細川家が諏訪家に侵攻。諏訪家について籠城戦。

諏訪家は滅亡も、こちらは細川家を撃退。

しかしその後すぐさま、細川軍が岩村城に進軍。

籠城戦で撃退し、斎藤道三や林通勝を配下にした。

1549年・春

概況

■第1軍団
兵士:1134⇒1400
金:6535⇒4526
金収支:4218⇒5180
米:3763⇒1946
米収支:98⇒127
鉄砲:0⇒0
騎馬:39⇒39

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:365⇒260
金:7765⇒11876
金収支:8207⇒5319
米:3632⇒5723
米収支:3062⇒2276
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

上杉家と細川家を対立させたいが、果たして。北陸の情勢次第か。

また、目標だった戦闘120以上の部将を10名の目標は、細川家の侵攻もあり達成できず。しかし、12名が100以上となった。

 

新規配下武将

浦上政宗(うらがみまさむね)
????~1566
赤松家臣。主家を圧倒して勢力を拡大した。子・清宗に黒田職隆の娘を迎えて勢力の安定を図るが、婚礼当日に赤松政秀軍の襲撃を受け、戦死した。

松永久秀(まつながひさひで)
1510~1577
主家・三好氏の実験を掌握する。信長の上洛軍に降るが、将軍・義昭が信長包囲網を敷くとそれに荷担。信長に信貴山城を攻略され、名器「平蜘蛛」と共に爆死した。

安藤守就(あんどうもりなり)
????~1582
美濃三人衆の一人。織田信長の軍門に降ったが、武田家内通の疑惑により追放処分を受ける。本能寺の変後、旧領回復の兵を挙げるも稲葉一鉄軍に攻められ敗死した。

三好義賢(みよしよしかた)
1527~1562
長慶の弟。兄の畿内進出後、本国阿波の政務を担当。阿波衆を率いてしばしば畿内に進出し、長慶の片腕として活躍したが、和泉久米田の戦いで討死した。

畠山政国(はたけやままさくに)
????~1550
畠山稙長の弟。兄の死後、家督を継いで河内守護に就任し、高屋城主となった。三好家と舎利寺で戦うが、敗北する。その三年後、紀伊で死去した。

本城実乃(ほんじょうじつの)
????~????
上杉家の臣。謙信の側近で、軍学の師。揚北衆が謀叛を起こして居城・栃尾城に攻めてきたとき、まだ14歳であった謙信を援護し、勝利に大きく貢献した。

粟屋光若(あわやみつわか)
????~????
若狭武田家の臣。信豊、義統の二代を通して侍大将を務めた。

冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)
????~1551
大内家臣。義興・義隆二代によく仕え、陶晴賢の謀叛の際には、義隆自害の介錯をした。最後まで寄せ手と戦い壮絶な最期を遂げた。

花房正幸(はなぶさまさゆき)
1524~1605
宇喜多家臣。主君・直家の創業時代から仕えた。弓の名手として知られ、各地の合戦で活躍する。細川藤孝から古今伝授を受けた文人でもあった。

南条元続(なんじょうもとつぐ)
????~1591
伯耆の豪族。父・宗元の死によって家督を継ぎ羽衣石城主となる。豊臣秀吉の九州の島津家攻略・小田原の北条家攻略に従軍した。治世七年にして病死した。

斎藤道三(さいとうどうさん)
1494~1556
「マムシ」の異名を取った梟雄。京都妙覚寺の僧から油売りの商人に身を転じ、ついには美濃一国の太守となった。しかし、子・義龍との戦いで敗れ、討たれた。

馬場頼周(ばばよりちか)
????~1545
少弐家臣。台頭著しい龍造寺家を苦々しく思い、謀略をもって龍造寺一族を滅亡寸前まで追い込む。しかし、ただ一人生き残った龍造寺家兼によって討たれた。

1549年・冬 細川決戦1次

岩村城にて、細川家との一次合戦。

これより幾度となく、この地で戦うことになろう。

1550年・春

概況

■第1軍団
兵士:1400⇒1337
金:4526⇒15914
金収支:5180⇒4909
米:1946⇒5447
米収支:127⇒488
鉄砲:0⇒0
騎馬:39⇒39

■第2軍団(酒井忠次)
兵士:260⇒270
金:11876⇒5471
金収支:5319⇒5471
米:5723⇒3005
米収支:2276⇒2740
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

細川家が大きく勢力を伸ばす。

ここは細川家の力を削らないと、ゆくゆくまずくなりそう。

新規配下武将

一気に増えてきたので、代表的な部将のみ紹介。

磯野員昌(いしのかずまさ)
????~????
1561年に近江国佐和山城主となり、対六角家の最前線で睨みをきかす。姉川合戦でも先鋒として信長軍を苦しめながらも、城に孤立させられ、投降した。

浅井亮政(あざいすけまさ)
1491~1542
浅井家の祖。主家・京極家の継嗣問題による内紛に乗じ、実験を掌握する。越前の朝倉家と結んで江南の六角家と戦いつつ、江北の支配権を確立した。

安田長秀(やすだながひで)
????~????
上杉家臣。謙信の側近として各地で活躍した。川中島合戦では、世に名高い「血染めの感状」を受けた。謙信の死後は景勝に属した。

七里頼周(しちりよりちか)
????~????
石山本願寺の坊官で、加賀の本願寺顕如の代官を務める。一向一揆軍の要請を受け、越前の富田長繁を殺害した。信長の北陸討伐軍に降った。

斎藤朝信(さいとうとものぶ)
????~1591
上杉謙信に従って越中・下野攻めなどに参戦、「越後の鍾馗(しょうき)」の異名を取った。謙信の死後は景勝に属した。猛将でありながら、行政手腕にも優れていた。

1551年・春

ここからは、いわゆる「パターンに入った」状態。

斎藤道三が配下武将に加わったことで「混乱」が容易に。

さらには、徴兵持ちの部将が3人になったことで戦争中に補充も可能に

細川家に戦争を仕掛けては・・・

臨時徴兵をしつつ・・・

斎藤道三で混乱させつつ・・・

一気に一斉攻撃!!

そして、家臣をどんどん増やしていく。

そして後は教育して、戦闘力の高い部将を揃えると

ここまで来たら、天下統一はできたも同然なので

一気に飛ばしていきたいと思います。

1551年・春

1552年・春

1553年・春

 

 

 

 

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