悲劇の部将 松平清康(まつだいらきよやす)

1511~1535
徳川家康の祖父。わずか13歳で家督を相続する。三河を平定するも、25歳で家臣に誤殺された。「30歳まで生きていたら天下をとれた」と言われたほどの逸材。

????~1549
松平家臣。息子・弥七郎が主君・清康を誤殺、その責任から自殺を図るが止められる。清康の子・広忠の岡崎還城に尽力し、その後は補佐役として活躍した。
森山崩れ(守山崩れ)について
天文4年(1535年)、織田信光の籠る守山城に侵攻する。
そして、松平清康が守山布陣をひいた、翌12月5日早暁に事件は発生する。
場所の守山城は名古屋のあたりにあった城。

詳細は下記Wikipedia参照
疑問点
重要人物:松平信定
阿部定吉の謀反説?
悲劇の父親、阿部定吉だが、彼が主犯とする説もあるようだ。
Wikipediaより抜粋(一部、改編)
ぴかり的・妄想考察
様々な思惑が渦巻いていたと考えられる。
大きく陣営は3つか。
- 松平清康陣営
斎藤道三に苦戦中の織田家に侵攻。 - 織田陣営(松平信定が加担?)
斎藤道三との対立で苦戦。 - 今川陣営(阿部定吉が加担?)
北条家と連携し、武田家と対立。内政に力をいれていた。
まず、阿部定吉はこの後、今川の大きな庇護を受けるので、今川寄りだったことは確か。
しかし、その後は清康の嫡男・広忠を支えて、家康が元服するまで松平家の筆頭重臣であったことから松平家を裏切ったとは考えにくい。
阿部定吉の謀反疑いは、織田が仕掛けた調略とみるほうが自然だ。
松平信定は、織田家寄りなのは確かで、婚姻関係もあるので、清康も把握していたに違いない。
家名を保つために敵陣営であっても、繋がりを残しておくことは大切とも考えられる。
そして、この森山崩れの際には、松平信定は同行していない。
結局、阿部定吉の嫡男・正豊が、織田の調略に嵌ってしまったではないだろうか。
定吉が渡したとされる誓書も、織田が作った偽物ではないだろうか。
そう考えると、
- 定吉が息子に相談するだけで、疑いを晴らす行動を起こしていないこと
- 馬離れの騒ぎで、正豊が父の誅殺と勘違いしたこと
は、一応説明がつきそう。
ただ、そうなると正豊一人で、大名である清康を誅殺できたのかという疑問がある。
阿部定吉が1505年生まれで、森山崩れの際は30歳。そうすると正豊は元服して間もないぐらいだ。
そんな若者が調略に引っかかったぐらいで清康を誅殺できるだろうか?
すぐに斬殺されていることから、周辺には警備もあったと考えられる。
ましては馬騒ぎで騒然となってる中である。手練れであれば、活かせる環境だが、15歳ぐらいの若造が活かせるだろうか?
まぁ、実行犯が正豊なだけで、裏で糸を引いていた誰かはいるのだろう。
それが、松平信定の可能性があり、まったく別の部将なのかもしれない。
と、まあ妄想してみました。


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