初期情報
部将情報
徳川家康の祖父にあたる松平清康が岡崎城の城主。

1511~1535
徳川家康の祖父。わずか13歳で家督を相続する。三河を平定するも、25歳で家臣に誤殺された。「30歳まで生きていたら天下をとれた」と言われたほどの逸材。

????~1549
松平家臣。息子・弥七郎が主君・清康を誤殺、その責任から自殺を図るが止められる。清康の子・広忠の岡崎還城に尽力し、その後は補佐役として活躍した。

????~1572
松平家臣。「合戦ごとに槍に血ぬらさずということなし」といわれ「血槍九郎」の異名を持つ。その武勇をもって、清康・広忠・家康の松平三代に仕えた。
領地情報

金:1524
金収支:274
米:1250
米収支:238
鉄砲:0
騎馬:10
1535年・春
概況
1年間は、清康と阿部の2人体制で、内政を行って、商業と民忠を上げる。それと並行して、長坂には徴兵を行ってもらった。

金:1524⇒1013
金収支:274⇒899
米:1250⇒788
米収支:238⇒140
鉄砲:0
騎馬:40
今川家には北部の小笠原家と、織田家も北部の何れかの大名と争ってもらう必要がある。これはもう運・・・。
新規配下武将
松平広忠が元服。政治も戦闘も中途半端で才能もB。なかなか厳しい。

1526~1549
徳川家康の父。今川家の後援で岡崎城の回復に成功するが、間もなく家臣に謀殺された。こののち、松平家は十何年もの間忍従の日々を送ることになった。
1535年・冬 織田勢の侵攻
岡崎城に織田勢が侵攻。
松平清康と長坂信政で、なんとか侵攻を食い止める。

戦闘後は残兵士が25と虫の息・・・。
なんとか兵士が揃うまで、他勢力の侵攻は止めて欲しいが・・・。

この戦で弱体化した織田家は北畠家に即滅ぼされた。

1536年・春
概況
織田家の猛攻を退けて、なんとか富国強兵を目指したいところ。

金:1013⇒427
金収支:899⇒992
米:788⇒503
米収支:140⇒340
鉄砲:0
騎馬:40⇒50
北畠を味方につけるため、土岐家を共敵とし友好を深める。織田家侵攻時に配下になった部将で友好を深めていく。

新規配下武将
柴田勝家が配下になったのは、大きい。

1521~1583
「瓶割り柴田」の異名を取った織田家中随一の猛将。本能寺の変後、主導権をめぐって羽柴秀吉と争い、賤ケ岳で対戦。敗北し、越前北ノ庄で自害した。

????~1555
信長の叔父。武勇に優れ、今川家との小豆坂の合戦では殿軍を務める。信長の清州城攻略に協力し、その後自身は那古野城に移るが、家臣に謀殺された。

????~1557
今川家重臣筆頭。遠江掛川城主。1548年の小豆坂合戦において太原雪斎を補佐して織田信秀を破るなど、今川家の西方侵攻の先鋒として活躍した。

????~????
今川家臣で、遠江犬居城主。今川家滅亡後は武田家、北条家に仕えて徳川家康と戦った。特に、武田家臣時代は山家三方衆を降すなどの功績を挙げている。

????~1557
今川家臣。三河国上郷城主。妻は今川義元の妹。義元の死後も今川家を離反せず、子・長照と共に忠誠を尽くした。
1537年・春 今川家侵攻
そして、富国強兵を進めていた中、今川家が侵攻。
北畠家とは親交を深めており不戦としてくれた。

兵力差は倍だが、相手に有力な部将がいないため清康の武力を持ってすれば撃退できそうだった。

案の定、無事撃退し、今川義元の首を刎ねた。

兵力は63に落ちたが、攻め込まれる心配はなく富国強兵を進められそうだ。

1537年・春
概況
北畠家とは有効度100、今川家は弱体化しており
腰を据えて富国強兵を進められる。
配下武将も、今川家から獲得し余裕が出てきた。

金:427⇒960
金収支:992⇒869
米:503⇒601
米収支:340⇒135
鉄砲:0
騎馬:50⇒0
新規配下武将

????~????
奥三河の豪族・山家三方衆の一家で、野田城主。長く今川家に属していたが、桶狭間の合戦で今川家が没落。その後は徳川家康に従った。

????~1565
今川家臣。桶狭間合戦で主君・義元が戦死すると、徳川家康に通じたため今川氏真に攻撃される。一度は和睦したが、その一年後、駿府城で謀殺された。

????~????
今川家臣。駿河東部に所領があり、今川家臣団の中では特異な位置にあった。武田信玄の侵攻軍に内応し、所領保全を図ったが、間もなく没落した。
1538年・春
概況
強兵が進み、兵力は145まで回復。
後1年は、兵力を蓄えて今川家の所領を攻めていきたいところ。

金:960⇒953
金収支:869⇒917
米:601⇒733
米収支:135⇒268
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0
新規配下武将
なし
1539年・春
概況

金:953⇒1439
金収支:917⇒987
米:733⇒457
米収支:268⇒150
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0

西方は、大内家と細川家が勢力拡大。
北方は、朝倉家が勢力拡大。
東方は、群雄割拠といったところ。
北畠家のほうが攻めやすいが、下手に弱体化させて、西側の細川家が迫ってくるのも嫌な感じだ。
やはり、ここは今川家を攻めていくべきだが、吉田城には大名の今川氏輝(戦闘57)、長篠城には小笠原長時(戦闘71)と中々攻めにくい。

しかし、モタモタしていられない。いざ、決戦!!
新規配下武将
なし
1539年・春 吉田城攻略戦
ようやく、攻勢に反転できる兵力が蓄えられた。
一気に落とす!!
北畠家は中立。漁夫の利狙いか。

吉田城、長篠城、曳馬(ひくま)城の三城を陥落。
北畠家は漁夫の利を狙いにくるも不発。

今川氏輝は打ち首。

小笠原長時が家臣になったのは大きい。


1540年・春
概況


金:1439⇒3223
金収支:987⇒3220
米:457⇒400
米収支:150⇒605
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0
所領が4つに増え、収入も大幅にアップした。
まずは今川家の制圧を目指したいが、戦闘力のある部将の頭数が不足気味。
長坂信政(戦闘107)、柴田勝家(戦闘97)、小笠原長時(戦闘76)、織田信光(戦闘74)
まずは、小笠原長時と織田信光の戦闘力を85以上にはしたい。
そして、西方は北畠家に防波堤になってもらいたいので、なんとも同盟を結びたいところ。
北畠家も願ってもない申し出とのことで、無事同盟成立。

新規配下武将

1519~1583
信濃守護。戦には強いが傲岸不遜の性格のため、武田氏との決戦・塩尻峠の戦いで家臣に裏切られて敗北。その後は各地を転々とし、会津の地で客死した。
1541年・春
概況


金:3223⇒4031
金収支:3220⇒4025
米:400⇒705
米収支:605⇒678
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0
1540年・夏に、朝比奈泰能(やすよし)が太原家(旧今川家)に引き抜かれてしまった。
家臣の忠誠もあげていかねば・・・。
新規配下武将

1527~1596
徳川氏覇業の元老。家康の教育係でもあった。家康の成人後は東三河衆を率いて各地を転戦、数々の軍功をあげる。その器量は豊臣秀吉にも称賛された。
1542年・春
概況


金:4031⇒5632
金収支:4025⇒4079
米:705⇒503
米収支:678⇒840
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0
北畠家が大内家に侵略され、所領が1つに。
今川家への侵攻を考えていたが、下手に領地を増やすのも危険な状況に。
有力な配下武将が、後2,3人欲しいところ。
新規配下武将

????~1562
今川家臣。桶狭間の合戦後、次々と家臣が主家から離反していく中にあって、最後まで今川方に残った。その後、三河平定を目指す徳川家康の攻撃を受け敗死した。
1542年・春 高天神城・駿府城侵攻
今川家も弱体化しており、高天神城・駿府城には部将3名しかおらず兵力40の安倍元真(戦闘81)しか戦力となるような部将がいない。
松平清康と柴田勝家で落城させた。

そして、安倍元真を配下武将に。
これで、さらに強国へと目指せる。

1542年・秋 山口家(旧北畠家)第一次防衛戦

大内家が盟友・山口家(旧北畠家)を侵攻してきた。
清康(戦闘133)のいる吉田城、長坂信政(戦闘128)のいる長篠城、織田信光(戦闘93)のいる岡崎城が巻き込まれているので、これは撃退するチャンス。

兵力差はあるものの、戦力では圧倒的。

野戦で大内軍を撃破した。
そして、大きな戦力となる
城井正房、鳥屋尾満栄、赤尾清綱、赤穴光清が配下に。

1543年・春
近況


金:5632⇒5059
金収支:4079⇒6340
米:503⇒487
米収支:840⇒1002
鉄砲:0⇒0
騎馬:0⇒0
朝倉家の衰退が目立つ。大内家が勢力を伸ばしている。
ここは山口家(旧北畠家)とともに、共闘して追い返していくしかない。
1542年・秋の山口家(旧北畠家)第一次防衛戦にて、大内家の有力部将を4名配下にできたことで、守りつつ東にも進出できる足掛かりを作れそうだ。
新規配下武将

1513~1587
今川家臣。岡部正綱と共に駿府城を守るが、武田信玄の駿河侵攻に際し、正綱と袂を分かち徳川家康を頼る。生涯を武田氏との戦いに捧げた反骨気鋭の部将。

1529~1595
赤穴光清の三男。兄たちが死亡していたため、父の死後に家督を相続。父の忠義に感動した主君・尼子晴久から所領を加増されたが、毛利家の侵攻軍に降った。

????~1573
浅井家臣。「海赤雨三将」と称された浅井家重臣の一人。小谷城に赤尾曲輪をもうけ、本丸の備えとした。小谷落城後に捕虜となり、殺害された。

????~????
北畠家の重臣。通称「石見守」。春具・具教・具房の三代に渡って仕え、主家と被官の間を結ぶ奉行人として活躍した。知勇兼備の将と伝えられる。

1504~1561
長野工藤家第14代。北伊勢地方の有力国人で、中伊勢地方を巡って伊勢国司・北畠家と抗争、あるいは共闘を繰り返した。

1478~1561
城井宇都宮14代当主。大内家の支配から脱するため、少弐、大友両家と結んで対立する。一族の佐田俊景に攻められ、結局は大内家に従うこととなった。

????~1572
美濃国岩村城主。武田信玄の臣・秋山信友に攻撃されたため、織田信長に加勢を頼んだ。明智光秀が援軍として駆けつけたが、戦いのさなか病死した。

1493~1542
尼子家臣。生涯主家に忠誠を誓った。大内家の出雲侵攻軍に対しては、居城・瀬戸山城に籠って抵抗する。しかし、最後は陶晴賢の家臣に喉を射られ、戦死した。
1543年 鉄砲伝来!

1543年・秋 山口家(旧北畠家)第二次防衛戦
大内家が盟友・山口家(旧北畠家)を再度侵攻してきた。

山口家も兵力増強しており、心強い。
これは軽く追い返すことができそうだ。

兵士34の犠牲だけで、ほぼ大内家を壊滅できた。
その分、山口家に被害が大きかったようだが、最前線の場所のため仕方がない。

そして、六角定頼をはじめとする有力部将が配下に。



コメント